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わたしについて

オージャスROOMへようこそ

藤城敦子(ふじしろあつこ)です。

このHPは、わたしが普段とても大事にしている『オージャス』というものをわかりやすく
お伝えできるプラットフォームです。

オージャスとはアーユルヴェーダの言葉で『活力・生命力』
そんなエネルギーいっぱいで生きられたらいいと思いませんか?
オージャスがあふれていたら、
なにが起こっても乗り越えるエネルギーがあるし、
自分がすきだし、
みんながすきだし、
いつも自然体でいられます。

そんなオージャスを軸に暮らしている、わたしについてお話ししたいと思います。

(もちろんまだまだ発展途上のわたしです)

もくじ

1. わたしのプロフィール(かんたんバージョン)
2. さらにわたしを知りたい人へ(くわしいバージョン)
      オージャスとの出会い
      生後5ヶ月で生死をさまよう
      どんくさい子だった
      小学生で英語に興味を持ったワケ
      人と違う方向へ進む
      暗黒時代の高校生活
      羽ばたいた高校留学
      チアに明け暮れた大学生活
      就職して、モヤモヤ
      転職の不思議話
      人のレールに乗るな、それはわたしの方程式ではないとわかった婚活
      ジェットコースター結婚
      産むって気持ちいいじゃん!
      楽しかった子育てからの二人目育児ノイローゼ
      自宅出産がわたしには合っていた
      ドゥーラへの道
      やっぱりわたしは自分で道を切り開くとうまくいくという方程式がある

3. このHPから届けたい思い

1. わたしのプロフィール(かんたんバージョン)

1973年11月名古屋市生まれ
京都→岐阜→アメリカ(ミネソタ州)→千葉→東京→千葉(いまここ)
家の目の前に大きな山と川があるという、田舎で育った健康優良児でした。
空想にふけるのがだいすきで、われながら素直な子どもでした。

大学卒業後は化粧品メーカーに就職。営業→企画部
外資系TVショッピング会社に転職。プランナー→バイヤーとして働く。(2人目出産後退職)
結婚後、上2人を愛知県の吉村医院で出産し「産むって痛くないじゃん!むしろ気持ちいいじゃん!」
と女性として生きるすばらしさに目覚める。(きらーん)
3人目は自宅出産をし、破水せず羊膜に包まれたまま産むという動物みたいな出産を経験。
*吉村医院は妊婦さんが薪割りするので知られている、自然出産を推奨する医院です。
河瀬直美監督の『玄牝』(げんぴん)という映画でも舞台になりました。

産後のケアの大切さに開眼し、2013年より一般社団法人ドゥーラ協会認定産後ドゥーラとなる。(1期生です)
現在はフリーランスでドゥーラ、コンサルティング、各種講座開催。

おむつなし育児アドバイザー、ベビー&チャイルドケアマッサージアドバイザー、家事セラピスト1級、
レイキヒーリング3rd Degree終了

すきなことは、早寝早起き、ウォーキング、ストレッチ、筋トレ、料理、ぞうきんがけ、家事全般、片付け、白いインテリア、文章を書くこと、ネコと遊ぶこと、空想、何気ない1日をていねいに暮らすこと、ヨガ、瞑想、メモすること、ヒーリング音楽、カフェめぐり、一人行動、アーユルヴェーダ、スピリチュアルマインド。

座右の銘は自灯明であれ』
(お釈迦様が死ぬときに弟子が「お釈迦様が死んでしまったらわたしたちはどうしたらいいんでしょう。」と問いかけたら「わたしを拠り所とするのではなく、自ら光なさい。」と言ったという逸話から。)

この世はゲーム。
自分でハンドルをにぎり、ゲームをどう楽しむか、なんだと思っています。
死ぬ時に「藤城敦子という人生を生きられて、ほんとにたのしかったな〜」と思って死にたい。

***

2. さらにわたしを知りたい人へ(くわしいバージョン。どうぞおこしやす。)

オージャスとの出会い

オージャスって知っていますか?
アーユルヴェーダの言葉で『活力・生命力』のことです。
わたしはこの言葉を知ってから、世の中を見る目が変わって来た気がします。
この言葉に出会ったのは、2012年のこと。
服部みれいさんのマーマーマガジンを読んでからです。

「オージャスって・・!すごい。(うっとり)」

となったのを覚えています。


オージャスについてはまた別の機会にくわしくお話しするのですが、
「わたしはオージャスたっぷりな人になりたい♪」
と思っています。

そのために日々、早寝早起き、オイルマッサージ、瞑想、食事、運動とオージャスUPにつながることを
マイペースにやっています。

生後5ヶ月で生死をさまよう

『わたしはもしかしたら、片足だったかもしれない
もしかしたら死んでいたかもしれない』

生後5ヶ月のころ、風邪の予防接種を太ももに受けました。
そしたらですね、そこから雑菌が入ってしまって左の太ももが腫れ上がってしまったんです。
じつはその注射をしてくれた病院は1ヶ月ほど前に火事があって、
医療機器が不足していたので注射針を消毒しただけで使いまわしていたそうです。
今の時代では考えられない状況ですが、当時はそういうことがあったみたいです。
もともと膿んだり化膿したりしやすいタイプのわたしは、症状が悪化してしまいました。
くしくも、時期はGW。
いろんな病院を回ったのですがどこも診察してくれなくて、両親は必死で探し回りました。
そしてやっと県立病院の救急外来で診てもらえたそうです。
(今ほど救急外来や時間外診療が行われていない時代だったから仕方ないですね)

県立病院にかけこんだときに医師から言われた言葉が、
「片足をなくす覚悟をしてください。もしかしたら命の保証もできません。」
ということだったみたいです。
親になって思うのは、もし我が子がこんな状況になったら生きた心地がしないだろうな・・ということです。
自分のこと以外で自分のこと以上に心配で必死になる。
親というのはそういう性(さが)ですね。

さいわいにも、片足を切断することもなく、命を落とすこともなくこうやって元気で生きております。
赤ちゃんだったので、麻酔ができずに足の処置をされ相当痛かったみたいです・・記憶になくてよかった。

このときわたしは「生きろ」という使命を天からもらったんじゃないかなと思います。
「生きて、経験すべきことをし、使命を果たせ」
そうだったからこそ、生かされたんだと思います。

それ以降、大きな怪我や病気をすることがなくすくすくと成長して行ったのでした。

どんくさい子だった

かけっこは遅い。
おっとりしていてぼーっとしている。
体が大きい。
口数少なめ。

そんな子でした。(今とだいぶ雰囲気違うと思います)
なので近所の活発な女の子たちと遊んでいると、物足りないと思われたかもしれません。
当の本人は、こういうもんだと思ってるので大して気にはしていなかったし、
気の合う子となるべく遊んでいた気がします。

運動は小学校5年生からバレーボールをはじめてめきめきと運動神経が開発され、
水泳、チアリーディング、ヨガ、ジョギングなどなど大人になってからひじょーに活発になっていきました。
いまでは筋トレしないと1日がはじまらない、といった状態です。
人って変わるねー。

小学生で英語に興味を持ったわけ

それは小学校5年生のときでした。
お正月に映画を見に連れて行ってもらい、見たのは『グーニーズ』。
なつかすぃ!よね

そのとき映画に出ていた子役のキーホイクァンくん(現在はジョナサン・キー)に一目惚れ。
なんですかね、子どもにありがちな本気で芸能人に恋してしまうというやつです。
ジャニーズとかアイドルとかそういう路線でなく、子役と言えどもアメリカに住むハリウッド俳優。
キーくんはスピルバーグに気に入られてインディージョーンズでも重要な役柄で出演してましたね。

とにかくキーくん。
寝ても覚めてもキーくん。
あんな感じのやさしい顔立ちがドンピシャなんです。
(その後中学生になって好きになった先輩もまさにキーくんみたいな外見でした・ポッ。今では坂口健太郎ファンです。なんとなく共通する外見ですね。夫は全然違う顔していますけど笑)

どうにかしてキーくんとコンタクトをとりたい。
そのころはネットなんてあーりませんので、映画雑誌の『ロードショー』『スクリーン』を穴が開くほど読み込んでいました。
そしてその時代、スターにどうコンタクトするかってファンレターでしたね。
映画雑誌には『リバーフェニックスへのファンレター宛先はこちら』みたいな感じで雑誌のヘッダーとかフッターに事務所の住所が掲載されていました。
そしてもちろんキーくんの住所をみつけ、さっそくお手紙をしたためたのです。

ただ、わたしは小学校5年生。
今の時代なら小学生でも学校で英語の授業があったりしますが、こちとら昭和真っ只中の小学生、それもど田舎です。
なので英語なんて「えーびーしーでぃー」の歌くらいしか知りません。
それでも「わたしのこのあふれる想いをキーくんに!」(迷惑(笑)
との思いが強すぎてなんと日本語でファンレターを書いて出しました。

そしてしばらくして・・家のポストにキーくんからの返事が届いたのです。

もう天にも登る気持ちです!
キーくんからの手紙はもちろん英語。
父に内容を訳してもらうと「手紙ありがとう!友だちに翻訳してもらって読んだよ!ドーモアリガト。」
みたいな内容でした。
自筆だったので(本人が書いたと信じている)、めちゃくちゃうれしかったです。
あとはグーニーズのノベルティみたいなグッズがいくつか入っていました。

「こ、こ、こ、これは。わたしは彼といつか会わないといけない。それも英語で会話して直接想いを伝えないといけない!」

とキョーレツに思いました。
それから英語を勉強したいと思うようになり、筆記体の練習といってノートにひたすらくるくるとらせんのような文字を書いたりしていました。(本格的に英語を学び始めたのは中学から)
映画にはどんどんくわしくなり、普通の小学5年生が知らないようなハリウッドスターの名前とかマイナーな映画の内容とかにすごくすごくくわしくなるちょっと変わった小学生となって行ったのでした。

その後も「当たってGO!」精神は続き、高校生の時に『今を生きる』に出ていたロバートショーンレオナードにもファンレターを書いて特大ポートレートが入った返事をもらい(まさに王子さま的な雰囲気の俳優さんです)、大学受験前には財津和夫さんにもファンレターを送り(コーヒーのCMで聞いた『虹とスニーカーの頃』でノックアウト)、とってもおしゃれな文字の財津さん直筆の返信をもらったことがあります。

人と違う方向へ進む

なんでしょうかね、わたしはこういう方程式を持っているようです。
いつもメジャーでなくマイナーな方向へ行く。
中学のころ同級生がジャニーズアイドルにキャーキャー言っていたころ、
わたしが好きなのは「石黒賢」(し、し、しぶすぎる)
アイドルとかには全く興味が持てない。
高校生のときやっとアイドルが好きになったけどそれは日本のアイドルでなくアメリカの「ニューキッズオンザブロック」。

まじ変わってるよねー。あはは。

あとは友だちは流行りのポピュラー音楽を聞いてる中、わたしが好きなのはヒーリングミュージック。
久石譲さん(ジブリでおなじみ)とか日向敏史さん(東京ラブストーリーとか愛という名のもとにのオリジナルソングなど作られています)とか溝口肇さん(言わずと知れた世界の車窓からのテーマソングが有名)とかです。
ほんとにほんとに変わってるね。

そして高校受験のときも地元の子たちが多く行く高校でなく、ちょっと離れた高校をあえて選んだり。(その高校には水泳部があったからが大きな理由のひとつ)


大学進学のときも普通に受験して大学生になるのがなんか納得いかず、アメリカの高校に留学したりしました。

これって性分なのかもしれません。
いまでも一人路線、あつこオリジナルな生き方をかなりしてるなと思うわたしです。
嫌いじゃないけど、そんな生き方。むしろ・・スキっ?

暗黒時代の高校生活
実はですね、高校生活はわたしは全然楽しんでなかったんです。
やっぱり田舎だったってことと、家から高校までは田舎でもさらに田舎道でなーんにもないところでした。
あるのは田んぼとあぜ道とカエルしかいません。
お店は米屋だったところがかろうじてコンビニっぽくしたお店だけ。
そこで買う菓子パンがわたしの癒しでした。
片道13キロの道のりを毎日自転車で40分かけて通います。
電車やバスなんて通じてないので(あったけどめちゃくちゃ本数少なくて、遠回りしないといけない)、
雨が降ろうがヤリが刺さろうが、自転車通学。

マイナー思考、海外思考なわたしはどうしても友だちとめちゃくちゃ盛り上がることができない。(友だちはいたけどね)
学校もめちゃくちゃ校則が厳しくて、やたらいばってる先生ばっかり。

中学まではそこそこよかった成績も、高校は進学校だったので優秀な子が多くて成績ガタ落ち。
もう勉強で頑張るのやめました。
だってなんであんなに急に数学と英語がムズカシクナルノ?誰かおせーて。
とりあえず単位を落とさない程度に、適当に勉強していました。

あれほど入りたかった水泳部ですが、入ってみたらみんな小学校からの経験者ばかり。
保育園時代にスイミングに行っていた程度のわたしはそこでも落ちこぼれ。
1年頑張ったけど、やめました。

それからのわたしはとにかく朝はギリギリに学校へ行き、
帰りはホームルームが終わったら1分でも早く帰宅が目標。

エネルギーも時間もある伸び盛りの高校時代をつまらなく過ごしていました。

羽ばたいた高校留学
ということでアメリカの高校に留学しました。1年間ね。
ボランティアのホームステイ先に滞在して1年間現地の高校へ通うというプログラムです。
でもですね、高校留学できるのって学年でトップクラスの成績で先生に「あなた留学したら?」と言われる子がするものだと勝手に思っていたんです。
でもそういうわけでなく自分でエージェント探して留学できるって知って「これは!」と思ったけどそのときすでに高校3年生の夏でした。
応募→認定試験→渡米までの準備→留学1年間、という期間を考えると普通は最遅で高校2年生の夏くらいで申し込み&試験となるのです。
ネットなんてない時代&虫の声しかしない田舎、というハンデを背負いながらも英語雑誌や英語新聞をくまなくチェックして探しまくりました。
そしたら、そしたら!
1つだけ応募できるエージェントがあったんです。
応募時期が高校3年生だったとしても誕生日が9月以降の人なら一つ下の学年に入れるよ、ってシステムで。

「わーい!わたしのためにありがとう。」(そういうわけじゃないけど)

と思って即応募、反対する両親を説明会に連れて行き、どれくらいこのエージェントがしっかりしているかということや留学した先輩たちの話を聞いてもらって説得しました(母は最後まで反対していたけどね)

で、高校を卒業して父が千葉に単身赴任していたのと兄も東京の大学へ通ってるということで家族で千葉に引っ越しました。
それから夏の出発までわたしは時間があったのでディズニーランドでバイトしてました(スペースマウンテンです。このバイトはめっちゃ楽しかった。)

そしてアメリカへ出発。
ステイ先はノースダコタ州です。
農家をしているお家でした。
書き始めると長くなるのでだいぶ割愛ですが、そこのママとあまり意見が合わず・・。
いっぱいガマンしたし、ママも大変だったと思います。今から思うと。
でもお互いにとってこの環境はよくないなと思って、同じ州に留学していた友だちに連絡してそこのホストに手伝ってもらってホームチェンジしました。そしたら転校することになって隣の州のミネソタ州の高校に通うことになりました。
そこで出会った友だちがいるのですが、本当に素敵な子で今でも大親友です。
この出会いのために転校したのかな?と思うほどです。
半年くらい経つと、実家からかかってきた電話で日本語を話すのが話しにくいくらい日本語をしゃべる筋肉が退化してて、逆に心の中とか夢の中で自分が喋る言葉が英語になっていました。
ある程度英語力、会話中心ですけど、がついてきたということだと思います。

そして1年後に帰国。
そこから半年で受験勉強をして日本の大学へ進学しました。

チアに明け暮れた大学生活

いろいろ受験したんですが、結局希望の学校には入れずでした。
押さえだった大学に入学して、「3年次からは別の大学へ編入しよ。」と思っていましたが、
学校の授業内容が結構充実していたし、なによりチアリーディングを始めたらめちゃくちゃはまって
とにかく学校生活は楽しかったです。
チアでは全国大会にも出て、選手権の映像が全国ネットでも流れました♪
でも今から思うともうちょっと根性出して編入試験受けるとか、海外へ留学してもよかったなと思います。
まあ若かったから流れに身を任せちゃったね。。恋愛の方も充実していて、その彼と別れたくなかったということもあります。


就職して、モヤモヤ
時は就職氷河期。内定したのは国内化粧品メーカー兼卸会社です。
最初は雑貨部門の営業。(営業の仕事は一人で動けるしいろんなところに出かけられて結構楽しかった)
その後外国部企画課に転部。海外製品の輸入担当で、やりたかった仕事でしたが上司と合わずに日々消耗。
とうとうマインドがやられてしまって退職しました。

しばらくぶらぶらしよー、と反社会的な状態で(笑)、映像翻訳の学校に通ってみたり吉祥寺のカフェ巡りなどしてました(当時住んでいたのがその辺りだったので)


転職の不思議話

ぶらぶらして、ゆーっくりした時間を1年ほど過ごして「そろそろ働こう」とやっとオージャスがたまって来ました。(このころオージャスって言葉やアーユルヴェーダのこと知っていたらなって思います。なんにも知らなかった)
会社員時代、さんざん苦労したし、会社の変なルールとか無言のプレッシャーの残業とかに辟易していたので派遣で働こ、と思い派遣会社に登録。
いくつかの面接を受け某大手IT会社の2次面接まで通過。あとは部長の最終面接だけ受ければよく、派遣会社の人も「きっと受かると思いますよ」なんて言ってもらったのですが、なぜかその部長面接がなかなか決まらない。「部長が海外出張中で」とか「多忙で」とかで予定が決まらない。
「派遣ってサクサク決まると思っていたのに、なんか縁がないのかな。」
と思って「これはもう、自分でちゃんと探そう。」と決意。
決意するとすごいパワーがあふれるわたしです。

正社員路線で探し始め、いくつか内定をもらいました。
そして第一希望だった会社の最終面接を受け、その結果待ちのとき。
「あーあの会社、社内の雰囲気もいいし(スタートアップの時期でした)、
仕事で英語使えるし(社内に外国人いっぱい)、あそこがいいな。」
と思っていたのですが返事がなかなか来ない。
約束の期日になっても来ないのでしびれを切らし自分から電話しました。

そしたら・・
「ざんねんながら今回は縁がなかったということで・・」
というフレーズを聞かされ、
「きゃーんそうなの?!最終面接では手応えがあったのに。」(英語面接でしたが乗り切った)、
と落胆しながらも「これだったら仕方ない。ぜひ来てくれと言ってくれてる第二希望の会社に入社の意向を電話しようと受話器を上げダイヤルを押そうとしたら・・

「あれっなんかどっかとつながってる感じ?!」

「もしもーし」

「はい、もしもし」

「○○社の人事のものです。大変申し訳ありません、先ほどは別のものが間違えてお返事してしまいました。
実はあたなは面接で合格していて、社長がぜひ入社してほしいと言っています。今社長が隣にいるので電話かわります。」

「ひゃーーー?!☆◎♯%?!」

という状態でしたが、めでたく第一希望の会社に転職できることになりました。
かかって来た電話にワンコールする間もなくわたしが受話器をとっていたのでした。
あっちもびっくりだよね。どういう状態?!って。

今から考えるとあのとき数秒でも早くわたしが受話器を取り、第二希望の会社に入社意向の返事をしていたらちがう道に進んだんだな・・と思うのです。
わたしは第一希望の会社に入るべく実は采配されていたのかもしれないと思うのでした。

めちゃくちゃ長いですね・・ここまで読んでくださってありがとうございます。
あともう一息。あと少し・・続きます。


人のレールに乗るな、それはわたしの方程式ではないとわかった婚活

仕事は順調。あとは恋愛、そして結婚かなーと思い始めたアラサーのわたし。
20代のころ、結構ひとつの恋愛にはまってまして、その重い想いから抜け出せなかったわたし。
でも「もうこの恋は無理だ!」と見切りをつけリスタートしていました。
次の恋愛に足を踏み出せずにいたし、前の彼氏の思い出が残りすぎててしばらく禊ぎ期間だ、と思い
フリーの時期を過ごしていました。

「でもさ、30過ぎたし、そろそろ彼氏いてもいいんじゃない?」

と思うようになり、それまで嫌いで行かなかった合コンにも行くようになりました。

ただ・・合コンってつまらない。
どうしても会った瞬間からお互い見定める感じとか、
面白くなくても盛り上げないと、という雰囲気とかにうんざり。
行ってみたら当時イケイケのIT会社の人たちでめちゃくちゃ天狗メンバーだったり、
ほぼ全員40代の人ばっかりだったり、
挙句の果てには既婚者が紛れ込んでいたり!

「やっぱり合コンなんてこんなもんなんだよね!!怒」

となってしまって自暴自棄なわたし。

同僚から「合コンは当たり外れあるから結婚相談所のパーティー行こうよ」
と誘われて行ってみたら仲介役のおばちゃんが何人かいてその人たちにリードされ、

「風船ゲームしましょう!はーい、落としたらだめよ。きゃー○○さんのところに行ったー!キャーキャー」

と外野ばっかりうるさくて、

「こんなおばちゃんにお世話してもらわないとわたしは彼氏の一人も見つけられないのか?!」

と自分に腹正しくなって来ました。

で結局のところ「自分で合コン企画した方が早い!」と思い、前職の男先輩にコンタクトをとり即合コン設定。
そこで、未来の夫となる人と出会ったのでした。

ジェットコースター結婚

こんなスピード結婚した人いないと思うんですけど、わたしと夫は富士急『ドドンパ』もびっくりのスピードです。

合コン→1週間後に付き合うことに→その1週間後にプロポーズ→そのまた1週間後に明治神宮のブライダルフェアで白無垢試着→さらにそのまた1週間後に一緒に住もうということでアパートを探す

という流れです。

なんという・・早さ。

まあその後、ありがたいことに子宝に3人授かり、しあわせに暮らしています。


産むって気持ちいいじゃん!
こっからはさくさくと行きますが、長女妊娠中、どうしても近所の産婦人科の検診を受けるたびに「ここで産む気がしない」と思っていました。
そしたらちょうどテレビで愛知県の吉村医院のことがやってまして、
「わたしここで産む」
と有無を言わせず(だじゃれ)、吉村医院で産むことができました。
そこで産んだことでいろんなことに開眼し、
出産って痛くないんだ(いや痛いけどね)でもそれを上回る気持ちよさがあるのーーー!!?(びっくり)
自然出産のすばらしさ、自分の体の可能性、女性生の豊かさなどを知り、それまで知らなかった扉が開いたのでした。これは今後ことあるごとに若い世代に語り継いで行こうと思っています。
気持ちのよい出産をした女性の使命だと思っています。


楽しかった子育てからの二人目育児ノイローゼ
妊娠中は自分の体の可能性に感動したし、
出産は気持ちよかったし(産んだ後またすぐ産んでもいいと思った)、
子育ても一人目ってこちらにも余裕があるのでめちゃくちゃ楽しんでました。

が・・二人目を産んだ後、乳児と幼児を同時に育てることのたいへんさを初めて知り(長女はわたしの育休に合わせて保育園をやめていました)、ほぼ育児ノイローゼになったわたしです。
その切羽詰まった状況を察した夫のおかげでまた長女が保育園に入れることになり、
なんとかわたしは自分を取り戻すことができました。

このあたりの経験が産後のブラックボックスを「どげんとせんといかん!」とわたしを奮い立たせたのだと思います。
そして今でも乳児と幼児を連れて歩くお母さんを見ると、胸がきゅーっとなってしまいます。


自宅出産がわたしには合っていた

吉村医院での薪割り生活、おいしいかまどご飯とかよい思い出いっぱいなのですがわたしは自分の出産で一番よかったのは自宅出産です。

だいぶこの記事もながーくなってしまったのでまた別のところでくわしく書くか、
後日追記したいと思うのですが、自宅出産はすごくよかったです。
なによりリラックスできる、移動がない、上の子たちも日常の延長でいられる、助産師さんのケアが手厚すぎる、などなどいろいろあるのですが自宅出産よかったです。
今後出産を考えている方は自宅出産という選択もあるのだということを知ってもらいたいです。


ドゥーラへの道

妊娠出産はめっちゃくちゃたのしかったのですが、子育ては別でした。
第一子のときは授乳に大苦戦。
産んだらおっぱいって勝手に出てくるもの、と思っていましたがそれはおおきなまちがいでした。
たしかにおっぱいは作られ始めますが、乳腺が開通していないのでなかなかするすると出てこないのです。
乳首も硬いからつるつる滑ってしまって、血だらけ。
おっぱい・胸の筋肉も凝り固まってるのでまるでアスファルト状態。
よいおっぱいというのはふわふわな土台の上にあるべきなのです。
半分ノイローゼ状態になりながらも「完母を目指す(すべておっぱいで赤ちゃんを育てる)」を
なぞにスローガンにしてねじり鉢巻をしていたわたしだったのです。

第2子出産のあとは、長女(2歳6ヶ月)がわたしの育休に合わせて保育園を退園したので平日は親子3人の生活です。
このときわたしは長女の子育てを実は自分でしていなかったということにはたと気がつきます。
幼い子との遊び方、過ごし方がわからない。
1歳までは育休で一緒にいたのですがそれからは保育園に預けていたので、子どもの成長に合わせてどうやって対応したらいいのかさっぱりわからなかったのです。
そして乳児と幼児と日中ずっと一緒にいるということにしんどさも覚えていました。
上の子は外で遊びたがる、下の子は生まれたばかりです。
公園へ行っても長女が駆けずり回ってる中それを乳児の長男を抱えながら追っかける。
なにか危ないことがあったらいざというとき助けきれないかもしれないという恐怖。
夏の炎天下の中、乳児の長男が暑い思いをしていて不憫にもなりました。
そしてだんだんと子どもを・・長女をかわいいと思えなくなってる自分に気が付き愕然とします。

「子どもがかわいくない・・ってこれ虐待につながらない?!」
そんな自分の気持ちに恐ろしくなるし、ひどい母親すぎてだれにも言えないし、でも目の前のわが子にふりまわされる自分がかわいそうになるし・・

日曜日の夜になるとサザエさん症候群です。
また親子3人のつらい向き合い生活が平日5日間続くのです。
夫はそんなわたしを察して週末はいろんなところへ連れ出してくれたり、
旅行を計画してくれたり、
旅行先ではエステを予約してくれたり、
いろいろしてくれてそういう気回しが苦手な夫の気遣いに感謝しましたが、わたしのこの気持ちの本当の解決にはなっていなかったのです。

その後夫が元の保育園に交渉してくれ(わたしも一度お願いしたけど断られていたのです。夫からの電話ということで園長先生がわたしの状態を察してくれて、調整してくれました)長女はまた保育園に戻れることとなり育児ノイローゼから脱出できたのでした。
いまでも乳児と幼児を連れて歩く親子を見ると、胸がキューとなります。
多かれ少なかれきっとつらい思い、だれにも言えない気持ちをママは抱えているんじゃないかと思うからです。

それからというもの、やっぱり産後のブラックボックスをどげんとせんといかん!こんなわたしのようなつまづきをこれから産む世代の後輩たちにさせるわけにはいかない!と強く思ったのでした。

そして海外ではドゥーラという存在があると知ります。
ドゥーラとはギリシャ語が語源で『女性のよき先輩』という意味があります。
なんて素敵なの!と率直に思いました。
わたしがほしかった存在はそれですそれーーー!と大声で叫びそうでした。

しかし時は2011年。まだ日本にドゥーラはありません。
「ないならば、作ってやろう、ドゥーラとやらを」
という思いでした。
が、一介の主婦であるわたし、なにができるのでしょう。
会社とか団体を作る、という知恵も財産も度胸も持ち合わせていません。

「それでも半径10メートルでできることを!」
とど根性を見せ(笑)、なにが自分にできるのかを考えました。
そして自分でチラシを作り、今のドゥーラ料金からすると半額以下の料金設定で(それでも全然いいと思った。わたしを使ってほしかった。)活動をはじめました。
ママ友とか保育園の顔見知りの人で妊娠している人を見つけてはチラシを配ってみました。
そしたらポチポチと依頼してくれる人が現れたのです。
見様見真似のドゥーラのはじまりです。

そんな折、ドゥーラ協会が日本でも発足するよ!という情報を聞いて、
「わたしのためにありがとう」
という気持ちいっぱいで養成講座に猛ダッシュしました。
認定ドゥーラになればわたしのことを1ミリも知らない人でも安心してわたしに依頼をしてくれる!と思ったのでした。
そして一般社団法人ドゥーラ協会の認定産後ドゥーラ1期生として2013年にわたしはデビューしたのです。
この「ドゥーラとして誰かを支えたい!」の思いが溢れかえっていたので、
1期生が誕生し協会HPで依頼募集がはじまったその2時間後にわたしへの依頼が入ったのでした。

この引き寄せ感には自分でもびっくりしました。
見えないものってあるんだよ、って。

その後、おかげさまで多くの方に依頼していただきたくさんのママたちのサポートをさせていただいています。

やっぱりわたしは自分で道を切り開くとうまくいくという方程式がある
(この件については後日追記します)